大好きなお婆ちゃんが先週の木曜日に101歳で亡くなり、金曜にお通夜、土曜日に告別式で帰ってくるというかなりハードなスケジュールでしたが、最後のお別れをして来ました。
確か10年ぐらい前に会った時に会話は成立するんですが、僕の事を孫だとわからなかった時になんとも切なく実は泣きそうになりましたが、とてもかわいらしく僕が1976年12月12日に横須賀病院で生まれる時や妹が腰越病院で生まれる時はおんぶして腰越病院まで連れてってくれたり、僕にとっては数々のお婆ちゃんとの優しい時を過ごした思い出やあの可愛い表情が忘れられません。
3つ後の魂百までとはよく言ったもんで、90代ぐらいの時のお婆ちゃんは百人一首の上の句を言うと下の句を言う事が出来たり、道は忘れっぽくなったりした様ですが足も丈夫でよく歩いたりしていました。
以下の写真は去年の100歳の時のお祝いで去年、鞍馬の近くの施設に行って少しだけ会い僕は従兄弟と鞍馬山を登っている時にカラオケで鉄道唱歌でノリノリになったりしている様子だと思います。
母の話によればプリンやゼリーをどうしても自分で食べたい様で口にスプーンで持って食べさせようとしても手で払いのけるぐらい元気だった様で99歳の誕生日に母が録画し僕がYoutubeにアップした動画ではしっかりとスプーンでプリンを食べています。
勿論悲しいですが、101歳の大往生なので、それよりも寂しくなるなぁという思いや2日間浄土真宗のお経を聞いていて、すべての意味がわかりませんが、日本語で話していた部分は七里ヶ浜高校の時に古文の先生に「なんで補習なんだ?古文なんて老後の趣味じゃねえか!こんな学問社会に出てどう役に立つんだか言ってみろよ!古文なんてもうすぐモバイル型の電話で翻訳できる様になるに決まってる」先生に喧嘩を売り、古文自体を否定した僕でも「この世の全ては幻」という部分はわかりました(笑)
お坊さんが「南無阿弥陀仏」がサンスクリット語でその意味は「南無=心から信じる、心から従う」「阿弥陀=量り知ることができない命・光」「仏=悟りを開いた者、仏様」というお坊さんの解説がとてもわかりやすかったです。
法名は天寿を全うした事にちなんで付けていただき1文字1文字の漢字の意味をお坊さんに教えていただきました。
101年前というと1917年で、1914年にサラエボ事件がきっかけになって勃発し1918年まで続いた第一次世界大戦の真っ只中の1917年です。
お婆ちゃんは樺太産まれでその当時の話から、第二次世界大戦で敗戦して樺太の土地や財産を全て没収され、北海道で完全にゼロの状態からの母方の叔父叔母からは知らなかった話を沢山してくれました。
母には僕が産まれる前に亡くなった母方のお爺ちゃんは射的業とつい最近まで江ノ島の神社に上がる途中にもあった射的屋の回転式射的台(下に安澤商会と書いてあります)で特許を取り、北海道から南下して、今でいうフランチャイズの様なやり方で、スバナ通り(父が片瀬オートを始めた本店兼実家)や京都の新京極、全国各地の温泉街にはスマートボールと共にその回転式の射的台を考案して財を無し、一時期は松下幸之助の次に長者番付に乗った事も会ったらしく、夏場に東浜の海の家(僕が大学時代に昔バイトした警備員詰所に場所だった)と父の片瀬オートがあった射的屋では、夏場だけが多いのでご近所さんがひがまない様に、両隣は勿論、スバナ通りの色んなご近所さんを連れて昔の大阪万博に何度も連れてった様でそこら辺の心遣いがうまいなと話を聞く度に思います。
祖父には会えませんでしたが、高校2年まで住んでた時に隣の土産物のおばあちゃんや僕が一番の常連だったほぼ目の前にあったプラモ屋のお爺さんからその時の話を感謝と共に色々と話してもらえました。
僕が髭を伸ばしている学生の時に亡き父が酒を飲みながらその縮れた髭は京都の祖父の遺伝だと嬉しそうに行っていたのを思い出します。
それ以外のお婆ちゃんの母の知らない話は叔父叔母が沢山話してくれて、特に末っ子の母はお婆ちゃんに仕事で連れてって貰っているのに、洞爺丸事故 が起こった1954年の台風15号で叔母、かなり恐ろしく怒るとロシア語が出てくる恐い曽祖父とのダブルの恐怖が恐ろしかったという話を特に通夜、告別式と何度も強調して教えてくれました。
どうやらお婆ちゃんに末っ子の母だけが色んな所に連れてって貰った事に叔父叔母はやきもちを焼いていたらしいです。僕も長男なのでとてもわかります(笑)
その叔母の向日市の家(2階は歩くだけで家が地震のように揺れる)が先日の台風で瓦が吹っ飛んで写真を見せてくれて、かなり驚きましたが、その話よりも洞爺丸事故 が起こった1954年の台風15号の方を優先して強調する叔母が面白かったです。
叔父の今の新京極のお店の隣には昔、京都花月があって射的屋を手伝ってた時に横山やすしや西川のりおなどが出番まで遊びに来てたようで、母は今の若手の芸人よりは確実に面白いので、ある日、西川のりおに「ねえちゃん美人だしおもろいなぁ。芸人にならへんか?」とたまに僕にいう事がありますが、そのまま芸人になってたら、いくよくるよ姐さんの様な大御所になってたので、その話をする度に「勿体無い!反対されてもチャンスを逃すべきではなかった。俺は生まれてないけどね(笑)」と話す事もあります。
でも母は芸人にはならずに江ノ島で父と母が出会い横須賀病院で僕が生まれ、京都のお爺ちゃん、お婆ちゃんが残してくれたスバナ通りの持ち家兼バイク屋として横須賀のナックモーターや栄オートで修行した亡き父は片瀬オートを開業できなかったし、30年以上中学生時代から大好きだったオートバイの整備士として働く事もなく、感謝の気持ちでいっぱいです。
孫の一人として僕は勿論寂しいですが、妹のまーちゃんの様にしっかりして、両親、ご先祖様からの遺伝子を僕の代で絶やしたくなく、結婚してないので結婚して子供が欲しいと思いました。つまりはお嫁さん募集です(笑)
今回はめでたい事ではないのであまり京都で写真を撮らなかったのですが、以下の写真は両親と従兄弟とお婆ちゃんと85年のつくば博で入ってすぐに迷子になり当時は携帯電話など無かったので皆んなでパビリオンみながら「お婆ちゃん大丈夫かな」と心配してたんですが、入ってすぐに貰ったつくば博のパンフ片手にお婆ちゃんはしっかりとパビリオンを見てた事がわかるパンフの写真、実際の本能寺の変は場所が違う様ですが、寺町にある本能寺をX-Menのスピンオフの「ウルヴリァン : SAMURAI」に出て来そうな雰囲気でとった写真、 享保2年(1717)からおよそ3世紀も続く老舗の一保堂でお茶を楽しめるカフェがあってそこでの秋限定の抹茶月影+モンブランの写真です。
まだまだ行ってない南禅寺と大覚寺など鬼平犯科帳や歴代で最高作の山崎努版の雲霧仁左衛門のロケ地巡りを雲霧仁左衛門のコスプレをしてしたいと思います。
享保の頃、江戸市中はもとより関東、東海道、中仙道、上方にまで、縦横無尽に盗み働きをしていた盗賊一味があった。 一人も殺さず傷付けず、雲か霧の様に消えてしまうところから雲霧一党と人は呼んだ。その首領は仁左衛門。
対する火付盗賊改方の長官は旗本安部式部。二人の知恵比べとも言うべき斗いは、果てしなく続いていた…。
(声:津嘉山正種)