妹から電話があり、脳腫瘍と多数の脳内出血で闘病していた僕の父・正行が61歳の若さで急逝しました。
父がそんな体で車に乗ってどこに行こうとしていたのかはわかりませんが、
1月8日の16時頃に新潟の過疎の田んぼで車が溝にハマって車を押し出そうとして、通りがかりの車に引っぱって貰ってワイヤーが切れて諦め、近場のガソリンスタンドがある国道に行く途中で倒れていたのが1月9日に発見されたようです。
死因は大動脈解離だそうです。
父の葬儀には大勢のお巡りさんが御焼香に来て頂きました。
父は長らく脳腫瘍と多数の脳内出血での痛みと闘っていたので、痛みから開放された様なとても安らかな顔でした。
バイクを整備している時以外はお互い喧嘩ばかり、、といっても殴り合いの喧嘩ではなくオーラで喧嘩していましたが、基本的には僕も父もお互い大好きでした。
良性脳腫瘍と脳内出血が多数あるののを知らされてからここ何年かは父になるべく優しく接する様にしていて、
年末に親父のスピード狂魂に火を付けて元気になってほしくて、電話で「世界最速のインディアン」というバート・マンローの実話に基づいた映画のラストシーンの舞台となったスピード狂&モータースポーツの聖地の米国のユタ州ボンネビル・ソルトフラッツに「まだ孫は出来そうにないからせめてもの親孝行として、俺がお金貯めて絶対連れてってやる」と言って「とても楽しみに待っているよ」と会話したばかりだったので、父の死が近づきある事にある程度覚悟はしていましたが、突然の事で連れて行けなくてとても悔しく残念です。
生前の父は中学の時にバイクに興味を持ち、公園で誰かにカブを借りて練習したりいじり始めて、ある日転んで鎖骨を折ったのに祖父母にバレない様に折れている状態が2週間ぐらい続いて祖父母に見つかってこっぴどく怒られた頃からバイク道に約40年突っ走りました。
酒を飲んで機嫌がいい時は、自分の武勇伝か名言を吐きたがるタイプで、本当かどうかはわかりませんが、高校の時に横浜駅で安岡力也が在日朝鮮人を虐めていたのを助ける為に横浜駅で集団で大喧嘩したといい「ほら、これがその時の傷だよ」と傷を見せびらかして来て、僕はニヤニヤ笑いながら話しを聞いたりしました。
その高校の頃に日本で始めてハーレーのチョッパーを制作&販売したナックモーターのおじさんと親しくなったり、横須賀の栄オートなどにもしょっちゅう出入りしていたようです。
超運動音痴の僕とは正反対にスポーツ万能でテニスの推薦で高校に入り、その後はボートが流行った時期があるらしく現在江ノ島の周りの海で水上バイクやウィンドサーフィンをしている辺りで、ボートレースをしたりボートのエンジンの修理などをして片瀬海岸で僕の母と出会ったようです。
結婚して横須賀に住む様になってからはかなり職を転々としたらしく、川崎重工のバイクの営業マン、自動車教習所の指導員などをしたりしてる中、僕が生まれました。
住んでいる家が崖の上にありビー玉が転がる様な危険な状態なのと横須賀は坂が多いから不便だという事で、僕が生まれる前に他界した母方の祖父が片瀬海岸の洲鼻通りに夏だけ商売をする射的屋の家を残してくれたおかげで、バイク道まっしぐらの父が(有)片瀬オートを始める事が出来ました。
父と生まれて初めて大人の乗り物に乗って恥ずかしがっている僕
母方の偉大な祖父のおかげで父がバイク屋を始める事が出来て今があるので僕も父も祖父にはとても感謝しています。
なので僕は京都のおばあちゃんの家に行く度に墓参りをしていますが、父もコッソリと墓参りに行っていたようです。
父は70年代~80年代のまだインターネット普及していない時代にデビル管やフランスのゴディエ・ジュヌー(Godier Genoud )を日本で初めて輸入したり、Harley-Davidson Sportsterなどの為のタンクを制作販売、GS1000のポテンシャルを最大に引き出せるマフラーを静岡の同業者と共同で制作して何度か業界紙に載ったり、バイクに対して恐ろしい程に情熱を注いで色々な事をし、そんな父の背中を見て育ち整備のイロハを父と一緒に働いて学び、ネジの1本でも再利用する倹約精神を教わりました。
生まれて初めての家業手伝い
父は自動車学校の教官であった時期もあり、小中学生の頃からバイクの正しい乗り方や転ぶ痛さや怖さを50ccのミニモトクロスを僕や僕の同級生に片瀬海岸の砂浜で教えてくれました。
高校に入ってすぐに免許をとってからこれまで自分が乗りたいバイクを選ぶ事は出来ませんでしたが、バイクの中古車のお下がりを乗せてもらって、ボロかったり好きなデザインのバイクは乗れませんでしたが、バイクに困る事が無かった僕はとても幸せ者だと思います。
父から学んだ事は僕のバンド時代の仲間や経験と同じくらい僕にとってはとても大事な宝物です。
父は本当は僕に家業を継がせたかったんだと思いますが、国内の自動車&二輪車メーカーが暴走族対策を車にしかしなかった事や1980年代後半から1990年代前半にかけての「第二次交通戦争」においての「三ない運動」で同業者もうちも窮地に追い込まれ同業者が次々と廃業していったので、「とてもじゃない家業を継げとは言えない」と言っていました。
二輪車は正しく慎重に乗ればとても爽やかで楽しい乗り物ですが、その二輪車のイメージを低下させる暴走族やチャラいのをとても嫌っている頑固で正義感の強い立派な父でした。
例えばある日、僕と父が店で整備などをしていると丸坊主の学ラン姿のどう見ても中学生の子が「HAWK-IIのパッキンください」と突然やってきて、父は「どうして中学生がHAWK-IIのパッキン必要なのかね?もうすぐ白バイのお巡りさんが来るからそこに座って待っていなさい」というとその中学生は走って逃げて行きました(笑)
そんな主義だったので、お客さんは公道を私道の様に走らない公道の「公」の意味を重んずる良識のあるお客さんが多かった様に思います。
父の仕事を手伝っていて白バイのお巡りさんや私服のお巡りさん、クレーン車やハマーやランボルギーニ、AMGなど珍しい車に乗った人がコーヒー休憩に遊びに来たりする手伝っていてとても楽しい場所でした。
今はどうかわかりませんが「湘南でハーレーとトライアンフをまともに修理出来るのはうちだけだ。」と昔よく言っていました。
僕の音楽に対する活動や思いは長い間、父には理解してもらえず確執がありましたが、
「お父さんは中学からずっとずっとバイク道に夢中に走り続けて来た。お父さんにとってのバイクが俺の場合は音楽に置き換わっただけで俺はもうその道を20年も走り続けている」と去年電話で会話してやっと少し理解してもらえたようです。
先週、父が僕にとっておいてくれた形見の工具が届きました。
特に珍しい工具はありませんがエンジンオイルと父の匂いがして、葬儀では泣かなかったのに、この工具箱を開けた途端に父との色々な思い出や感謝の気持ちで胸がいっぱいになり涙が止まらなくなりました。
父の息子である事を僕は誇りに思います。
父がバイクを修理する姿は一生忘れません。
お父さんここまで育ててくれてありがとう。
長くなりましたが、生前の父と片瀬オートをご贔屓にしていただき誠にありがとうございました。
僕は今はただ自分の道を一生懸命頑張っていかねばと思うばかりです。
まだまだ若輩でありますのでこれまでにも増してご指導ご鞭撻を賜りますよう、ここにせつにお願い申し上げます。
2014年1月